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2015/08/24 (Mon) 20:45
『イズモ』新刊掲載小説試し読み

30日の日曜日に開催されるコミティア113に、東京大学創文会も新刊を用意した上で参加します。
以下の小説は、その新刊に掲載されている小説の一部です。よければご一読ください。




『イズモ』

1章

 4月も終わりに近づき桜の散ったキャンパスを、俺はぼんやりと歩いていた。大して興味もない授業を受けたあと特有の空虚な疲労感が、俺の体を包んでいた。
 ふと横を見ると、一組の男女が並んで歩いていた。彼らは談笑していたが、ときどきふとした拍子に手が触れてはさっと引っ込め、そして顔を見合わせて苦笑いすることを繰り返していた。どうせ付き合いたてのカップルなのだろう。俺は彼らが惨たらしく死ぬ場面を想像してなんとか気を晴らそうとしたが、かえって空しくなっただけだった。
(カップル、ねえ――)
 俺の名前は武藤(むとう)祥吾(しょうご)という。洒落にも自慢にもならないが、生まれてこのかた彼女の一人もできたことがない。それどころかまともに仲良くなった女性がいない。それどころか女性と会話した経験すらほとんどない。俺と話してくれるのは実家の母親、そしてペットである犬の花子くらいのものだろう。
 歩いている途中、校舎の窓ガラスに顔を映してみた。グレーのパーカーに色あせたジーンズという実に冴えない格好をした、死んだ魚の目をした男がいた。つまり俺だ。
 かつて男子校に通っていたころの俺は「大学生になったら彼女ができてバラ色のキャンパスライフを送れる!」と無邪気にそして愚かしく妄信していたものだが、現実という名の荒野を吹き抜ける乾いた風は無残にも俺の空想を吹き飛ばしていった。
 こんなはずではなかった。だがこんなになってしまったものは仕方がない。
 現実は無情にして無常である。
 俺にできるのは、ひたすらにカップルを呪うことだけだ。

 俺は遅い昼食を摂ろうと食堂へ向かった。銀杏並木と呼ばれる、銀杏の木が左右に立ち並んだ道を、俺は歩いた。ちなみにこの銀杏並木は、秋になると阿呆としか言いようのない量の銀杏を落としその臭気で学生を悶絶させることで有名である。
 道を歩く学生の姿は少ない。本来今は三限の授業時間中なのだが、先ほどの授業が早めに切り上がったので、こうして俺は食堂へと歩いているわけだ。
 俺はふと、道の横に立つ女性に目を向けた。彼女は生協食堂の建物の壁にもたれかかり、じっと腕を組んでいた。
 どうしてその女性に目が向いたのかというと、これはもう正直に申し上げるが、その女性がとんでもない美人だったからだ。
 絹のようにつやのある黒髪は腰に流れ、長いまつげが物憂げな影を落としている。グレーのショートパンツに白いTシャツ、そしてほどよく色あせた紺色のデニムジャケットを羽織っている。えらく足が長いのでヒールでも履いているのかなと思ったが、なんと黒いスニーカーを無造作につっかけているだけだった。足の長さは自前らしい。
 俺はしばらくボケッと見とれていたが、しばらくして慌てて視線を逸らした。ああいう女は俺とは人種が違う。あの類の女は大抵がテニスサークルでイケメンとよろしくやっているか、バスケサークルのマネージャーとしてイケメンとよろしくやっているか、さもなくばどこぞの得体の知れないイケメンとよろしくやっているかのどれかだ。いずれにせよ俺なんぞはお呼びじゃないし、じろじろ見ていたら気持ち悪がられるのがオチだろう。
 無言で彼女の横を通り過ぎようとする俺。だが、俺の耳に聞きなれない声音が飛び込んできた。
「おい」
 女の声だった。なんというか、少し低めでよく通る、いい声だった。
 俺は気にせず歩いていたのだが、すると再び女の声が聞こえた。
「おい。お前だお前。そこの死にかけのチョウチンアンコウみたいな顔をした、いかにもモテなさそうな大学生風の男」
 さてそんな面白い顔をした奴がいるのかと俺は背後を振り向いた。すると、さっきの美人とばっちり目が合った。美人はにかりと笑った。
「やっと気づいたか。お前だお前」
 どうやらチョウチンアンコウ呼ばわりされたのは他ならぬ俺だったようだ。俺は憮然として美人に歩み寄ろうとしたが、それに先んじて美人はつかつかとこっちへやってきた。生協食堂の入り口横で、俺は美人と向かい合った。
「ふーん。……」
 美人は何を思ったのか、じろじろと俺を眺め回していた。居心地が悪くなり始めた俺の前で、美人はとんでもないことを言った。
「なあお前。彼女が欲しくはないか?」
 俺は耳を疑った。なんだこいつ。
「どうした、馬鹿みたいに私を見て。彼女だよ彼女、大学生にもなってそんなことも知らんのか? まあ外見からお前は彼女ができた経験なぞないことは火を見るよりも明らかだが、聞いたことくらいはあるだろう?」
 唖然とする俺の前で、美人は相変わらずしげしげと俺の全身を観察していた。
「うーん。見れば見るほど逸材だな。全身の毛穴という毛穴からモテないオーラが噴出している。よくもまあこんな生命体が生まれたもんだ、神の悪戯だな」
 なんだか凄まじく失礼なことを言われている気がした俺は、憮然としながら言った。
「いきなりなんだ。誰だよ、あんた」
 俺の言葉も意に介さず、女は背負ったリュックサックから何かを取り出した。
 それは巨大な厚型ファイルだった。表紙は薄い水色で、端っこの方はぼろぼろになっている。中にはA4サイズの紙が大量に綴じられていた。女は猛烈な勢いでそれをめくっていった。じっくり読むことはできなかったが、大量の顔写真が貼られているのは分かった。
 紙をめくっていた女の指が、ある場所でぴたりと止まる。女はファイルに目を落としながら言った。
「武藤祥吾、十九歳。東京大学理科一類二年在籍。家族は栃木の実家に父親と母親と妹、そしてペットの花子。趣味はゲームと漫画。彼女いない歴イコール年齢。うん、いっそすがすがしいまでにパッとしないプロフィールだな」
 そう言って女は、なにが可笑しいのかゲラゲラと笑い転げた。
 なんでこの女は俺の名前を知っているんだとか、どうして初対面の人間にここまで言われなきゃいけないんだとか、その他様々な疑問が頭の中に浮かんでは消えた。俺の不思議そうな顔を見てか、付け加えるように女は言った。
「このファイルにはな、全人類の身長や体重に始まり、好きな食べ物や恋愛遍歴に至るまでの全ての情報が収録されているのだ。縁結びの神にとっての必携品だな」
 何を言っているのか分からない。俺はいよいよ体を固くした。
 やがて笑いが収まってきたのか、女は目の端の涙を拭いながらファイルをしまった。
 そして口の端をくいと持ち上げながら、その形の良い目で俺を見る。
「私の名前はイズモ。〝縁結びの神〟見習いだ」
 俺は目の前の女の言っていることが分からず、阿呆のように「は?」と聞き返した。女は「ふむ」とあごに手を当てて考え込んだ。
「聞いたことはないか? 縁結び」
「いや、聞いたことくらいはあるが……。あれだろう、男女の縁を取り持つ神様だろう」
「なんだ、知っているじゃないか。ならはっきりそう言え。意見のはっきりしない男はモテないぞ」
 そういう問題じゃないんだけどなあと思う俺の手前で、イズモと名乗った女はぺらぺらとしゃべり続けている。
「私は縁結びの神の見習いだ。ついさっき人間界に来たんだが、その矢先、思わず目を疑ってしまうほどにモテない波動を放つ人間にめぐり合った。つまりお前だ」
「そんな波動を放った覚えはないぞ」
「放っているではないか現在進行形で」
 いよいよ女が何を言っているのか分からず、俺は口をつぐんだ。
 そして女は――少なくとも俺にとっては――その後の人生を大きく変えることになる一言を口にした。
「武藤祥吾。お前に彼女を作ってやる」

「あ、俺宗教とかそういうの興味ないんで」
 俺はそう言ってにこやかな笑みを作り、きびすを返した。そして早足でその場を去ろうとする。
「は? 宗教? おい何の話だ。武藤、待て!」
 後ろからイズモと名乗った女の制止の声が聞こえたが、俺は無視して歩き続けた。とりあえず手近な生協書籍部の建物に逃げ込もうと思っていた。
(あっぶねー、新手の宗教勧誘だよアレ、つい引っかかりそうになった)
 大学の構内では、ときおり怪しげな本を携えた怪しげな人間が「一緒に〝勉強会〟をやりませんか」「真理とはなにか考えたことはあるかい」「可愛い女の子と合コンするんだけど君来ない? あ、ちょっとお寺みたいな場所でやる変わった合コンなんだけど」などの言葉で学生を宗教に誘っている。
 常識的に考えればそんな胡散臭さの極致みたいな誘いに乗るなんてどうかしているのだが、友達の少ない東大生は美人に誘われるとコロッとだまされてしまうことがある。大学教務課としても頭の痛い問題らしく、ときどき注意喚起の張り紙やメールを見かけることがある。
 いずれにせよ、あのわけの分からないことをまくし立てるやり方やむやみに美人の「勧誘員」の存在はどう見ても新興宗教だ。
 極めつけには「彼女を作ってやる」と来た。彼女を作ってもらったが最後、そのまま宗教団員として引き込まれてしまう未来に疑いはない。
 やれやれ、危なかった――。胸をなでおろす俺の肩が、唐突にむんずとつかまれた。
「待てといっているだろうに。お前、なにか勘違いしてないか?」
 振り返ると、先ほどの美人が目を眇めて俺を見ていた。
「宗教なら間に合ってます」
「だから違うと言っているだろう」
「いや、俺アレです。ダンボオクトパス教なんで。知ってます? ダンボオクトパス。海洋生物の一種なんですけどね、顔のついたクラゲみたいでなかなか可愛いんです。俺はダンボオクトパスを神と崇めるダンボオクトパス教の熱心な信者なんですよ」
「お前が何教を信奉していようと一切構わないが、私の話をとりあえず聞け。彼女が欲しくはないのか?」
「ダンボオクトパスが俺の彼女です」
「何をわけの分からんことを言っているんだ貴様。いいか、聞け。お前、彼女ができたことがないだろう?」
 彼女ができたことがない。それは図星だった。俺はぐっと言葉に詰まる。イズモはにやりと笑った。
「そうだろうそうだろう。私は縁結びの神見習いだからな、見れば分かる。お前のモテないオーラは半端じゃない。そんなオーラを放っている奴が彼女なんてできるわけがない。そのダンボナントカとか言う海洋生物だってお前のことはお断りだろうよ」
「そ、そこまでモテなくはない」
 思わず言い返した俺に対して、イズモはゆっくりと首を振って見せた。彼女の長い髪がふわりと揺れた。
「いいや、私には分かる。なにせ私は縁結びの神見習いだ。誰がどのくらい異性に対して魅力的なのかは一目で分かる。武藤祥吾、お前は古今東西類を見ないモテない男だ。この地球上に存在する三十五億の男全員に彼女ができてもお前にだけはできないだろう。お前の先祖がまだ体毛モサモサのモンキーだったころから受け継がれたDNAはお前の代で途絶えること請け合いだ」
 そんな馬鹿なと俺は反論しようとした。だがイズモは俺に先んじて言葉を続けた。
「このままではお前は彼女ができないまま人生を終える。いいのか? 古ぼけたアパートの片隅で麺の伸びたインスタントラーメンをすすりながら『料理を作ってくれるお嫁さんがいたらなあ。ああ、母さんの手料理が懐かしい』と一人涙をこぼす、そんな老後を送りたいのか? 送りたくないだろう? だが今のお前はその絶望の未来を回避することはできない。それどころかお前は時速百キロでその未来に驀進(ばくしん)しているも同然の状態だ。そんな結末は認めるわけにはいくまい。だから武藤、私に任せろ。必ず、お前に彼女を作ってみせる」
 なぜなら、とイズモは胸を張った。
 そしてこの顔だけはいい、しかしどう考えても頭のネジがぶっ飛んだ女は、確かにこう言ったのだ。
「私は縁結びの神見習い、イズモだ。お前の途切れた縁、必ずだれかと繋げてみせる」
 そう言って、イズモは自信に満ちた目でじっと俺を見た。
 そして俺はそんなイズモを尻目に、脱兎のごとく駆け出した。
「あ、こら待て! 武藤!」
 背後で不審者、もといイズモが叫ぶ。俺はあの変な女と関わり合いになるまいと、必死に走り続けたのだった。

 東京大学購買部の横を通り抜けてさらに歩くと、学生会館と呼ばれる建物がある。外観からして東京大学の衛生観念に疑問を抱かざるを得ないほどに汚らしいオンボロ建築で、入り口の鉄扉は満身の力を込めてようやく開く。建物に入るだけで不快な汗がほおを伝っていくことは請け合いだ。なので学生会館の入り口では、ハアハアと息を切らせた大学生たちがむさ苦しく部屋の湿度を上げている光景が散見される。
 さて俺が学生会館の重い鉄扉をこじ開け建物の中に入った途端、なにやら罵声が聞こえてきた。見ると、Tシャツが汗でべとべとになった痩せた青年と、頭髪を緑色に染めた若い女が言い争っているところだった。彼らは学生会館に据え置かれたコピー機の前に陣取っていた。
「じゅ、順番は守ってくださいよ、このコピー機は僕たちが」
「うっせーよキモオタ、お前さっき列外れただろ! ブヒブヒ言い訳してないでさっさとどけよ!」
 痩せた青年がかん高い声を上げるも、覆い被せるように緑色の髪をした女は怒鳴った。
 周囲には野次馬が集まっている。いや、野次馬というよりは、緑色の髪の女の仲間とおぼしき男女が数名、威圧するように痩せた青年を見下ろしていた。
 ちなみに彼らの頭髪はいずれも金色や青などの超自然的蛍光色に染め上げられており、いったいどんな人生を送ったらあんな髪の色に染めようと思うんだろうと俺は密かに思った。一番凄まじい髪の色をした男は、根元から毛先に到るまでグラデーションを描いた虹色に髪を染めていた。
 彼らは皆、某テニスサークルを示すロゴが印刷されたパーカーを羽織っていた。
「お前らアメコミ研究会だろ? ビラなんか作ったところでどうせ新入部員なんか入らねえよ!」
 緑髪の女がガンとコピー機を蹴りつけた。そこに至ってようやく、俺は痩せた青年が顔見知りであることに気付いた。俺が主催するサークル「東京大学アメコミ研究会」の会員である。今年から入った新入生で、名前を高木(たかぎ)という。
「そ、そんなことは関係ないだろう! 僕たちは先に並んでたんだ、だから」
「るっせぇよ、どけキモオタ!」
 ずり下がった眼鏡を直すこともせず、高木君は叫んだ。しかし高木君の言葉を遮り、緑髪の女はどんと彼の肩を押した。高木君が尻もちをつく。周囲の男女が一斉に笑った。
「高木君!」
 俺は走り寄った。高木君は細い目に涙を浮かべて、大きな眼鏡越しに女をにらんでいた。
「あんだよキモオタ、見てんじゃねーよ」
 緑髪の女は俺たちを見下ろしながら言った。俺は何ごとか言い返そうと思ったが、結局なんの言葉も思いつかなかった。ただ唇を噛んで女をにらみ返しただけである。
「日本語喋れないのかよ。マジでオタクって気持ち悪いな。そんなだから彼女できないし、気持ち悪いマンガやラノベで現実逃避するんだよ」
 爆笑。学生会館一階は笑いの渦に包まれた。
「……高木君。行こう」
 俺はそう言って本間を促した。高木君は何か言いたげに口をもごもごさせたが、結局血走った目で緑髪の女をにらんだだけだった。
 去り際、うしろから声が聞こえた。
「オタクは一生アニメ見てろ! どうせ二次元しかお前らの彼女になってくれねえよ!」
 何度も声は廊下に反響した。横を歩く高木君が、小さく「……畜生」と言うのが聞こえた。
 そのとき、ふとイズモの顔が浮かんだ。
 ――彼女が欲しくはないか。
 そんなイズモの声が、耳元で聞こえた気がした。
「……悪いが、それは無理そうだな」
 俺はつぶやき、そして学生会館の階段を上っていった。

 部室へ向かう途中、ぽつりぽつりと高木君が事情を語ってくれた。
 新入部員を増やすためにビラを印刷しようとしたこと。高木君と言い争っていた女性が、言いがかりをつけて順番を抜かそうとしたこと。文句を言ったら、「オタクは黙ってろ」と罵声を浴びせられたこと。
「気にするな」
 俺は高木君の肩をぽんと叩いた。
「よくあることだ。俺たちみたいないかにもモテない人間は、どうしてもああいう連中からは格下に見られるもんだ。俺たちにできるのは、上手に住み分けることだけだよ」
 高木君は無言だった。俺たちは学生会館の階段をゆっくりと上った。だがあるとき、高木君がぴたりと足を止める。
「……モテないのが悪いんですかね」
「ん?」
「女の子から見て魅力的じゃないっていうのは、罪なんですかね」
 高木君は苦しそうに言った。汗でびしゃびしゃになったTシャツのすそを、彼は握りしめた。
「僕だって、好きでこんな顔に、こんな性格に生まれたわけじゃない。女の子に気持ち悪がられるのは、僕に彼女ができないのは、僕だけの責任じゃないはずなんです。でも――」
 高木君は言葉を切った。そして曖昧な笑みを浮かべた。
「ビラは、また明日にでも印刷しますね。すいませんでした」
「……ああ。分かった」
 俺は頷いた。階段の下からは、楽しそうに騒ぐ男女の声が響いていた。

 学生会館は三階建てで、階段も三階までで途切れている。各階には小さな部屋が廊下の両脇に横並びに設置されており、その各々には色んなサークルが陣取っている。ある部室からは思わず失神しそうになるくらいに男たちの体液の臭気がもうもうと立ち込め、かと思えばある部室は前を通り過ぎるたびに怪しげな呪詛が延々と聞こえている。その部屋の前には小さく、「怨霊対話サークル『呪怨(じゅおん)』 新入部員募集中」と扉に直接赤いマジックで書き殴ってあった。
 だが、三階までの階段をのぼったのち、廊下を東側に進んで突き当り。どのサークルにも供されていない、乱雑にホウキやらモップやらが積まれた物置のような部屋の奥には、小さな扉がある。その扉を開くと、古ぼけた木製の階段が目の前に現れる。
 それが、学生会館の知られざる四階へと通じる、秘密の道だ。その階段を上った先に、俺が所属する「東京大学アメコミ研究会」の部室があった。
 部室の中には、数名の部員が所狭しとひしめき合っている。日当たりも風通しも悪い場所のために、部屋の中は慢性的に人を不快にさせる臭気が充満している。
「部長!」
 声のした方を振り向くと、部員の一人がこちらを見ながら薄ら笑いを浮かべていた。黒いマントを羽織った男の描かれた漫画を、彼は右手に持っていた。
「以前話したコミックの新作出ました。バットマンの丸パクリですけど、本家にはないシュールさがあってこれはこれで面白いですよ」
「ほう、では拝見しよう」
 俺は漫画を受け取った。わくわくしながら1ページ目を開くと、いきなり若い男女がベッドでキスをしているシーンに出くわした。俺は吹き出しそうになった。
「……なあ、この女の子って確かヒロインで、前の話で主人公と恋仲になってなかったか?」
 俺が質問すると、部員はあっけらかんとした口調で答えた。
「あ、それ浮気シーンです。主人公が出張でシカゴに行っている隙に、若手銀行マンにパクッとやられちゃったみたいですね」
「きっついなー……」
「アメコミはその辺容赦ないですからね。某クモ男の話だって、ヒロインの一人が実は主人公の宿敵と子供を作ってたじゃないですか」
「ああ、あれは衝撃だった。どう見ても後付けなのに、ここまでやるかと思ったな」
 俺は漫画を読み進めた。ヒロインが浮気相手と愛の言葉を囁きあうシーンが実に五ページにわたって濃密に描写され、読者としてはなかなか心に来るものがある。
「ま、現実の女もこんなもんですよ。三次はクソですよ、クソ」
「そういうもんかね」
「あいつら金とイケメンのことしか考えてないですもん。僕のクラスメートの女、顔は可愛いですけど、イケメンバンドマンと四十過ぎの公務員と家庭教師先の高校生の三人といっぺんに付き合ってますよ」
「それは確かにクソだな」
「でしょ?」
 俺たちは顔を見合わせ、げらげらと笑った。
 そのとき、部室の扉が唐突に勢いよく開かれた。俺たちはびくりと肩を震わせた。
 扉からにゅっと入り込んできた長い黒髪を見て、俺の背筋を冷たいものが駆け抜ける。
 扉を開けて――というかもうほとんど蹴破ってと言ってもいい勢いで入ってきたのは、やはりイズモだった。ジャケットのすそをたなびかせ長い髪を揺らしながら、イズモは俺たちを睥睨(へいげい)した。
「邪魔をするぞ。……うわっなにこの部屋くっさ!」
 開口一番に失礼なことを言ったイズモは、部屋の中央に座り込んで体を固くしていた俺を見てにかりと笑った。
「いたか武藤。探したぞ。しかしこの部屋信じがたいほどに臭いな。とりあえず換気しよう」
 そう言って我々の言葉も聞かずふにゃふにゃの畳に上がりこんだイズモは、そのままつかつかと部屋を横断し窓を開け放った。どんよりと空気のよどんだ部屋に、涼しい風が吹き込んだ。
「まったくお前らよくこんな臭い部屋で生活できるな。臭いにすら気を使えないからモテないんだ」
 イズモがそう言うと、部員の一人が声を上げた。
「ちょ、ちょっと。いきなりやってきてなんだよあんた、失礼じゃないか」
 よくぞ言った、と俺は心中で喝采の拍手を送る。その勇気ある部員は言葉を続けた。
「大体、あんたうちの部員じゃないだろう? 部外者が部室に来ないでくれよ」
 部員がそう言うと、イズモははんと鼻を鳴らして言い放った。
「うるさいぞ童貞。女の一人も落とせない連中が私に意見するなど笑止、身の程を知れ」
 俺は絶句した。俺たちはそろって顔を見合わせ、そして敵意を込めてイズモを見る。だが当のイズモは涼しい顔をしている。
「うん。やはり武藤についてきて正解だったな。モテない男はモテない男同士でつるむものだ。ここにいる連中、どいつもこいつもモテ・ヒエラルキーの最底辺。こいつとデートするくらいなら毛虫とデートするわと言われそうな冴えない顔が面白いくらいに揃っている」
 イズモはずいと腕を組み、傲然と俺たちを見回した。
「いいか、お前たち! 私はお前たちを馬鹿にしに来たのではない!」
 いやどう考えても馬鹿にしに来てるだろ、という俺のつぶやきは空気に溶けて消えた。
「私は、お前たちを救いに来たのだ! 冴えないモテないつまらない、その馬糞にも劣る人生の舵を転換するべく、私はここにいる!」
 イズモの声は部屋に朗と響き、俺たちの鼓膜を奮わせた。
「お前たちはもういくつだ? 二十歳も目前、世間では元カノの一人や二人、なんなら五人や十人いてもおかしくはない年頃だろう! しかるにお前たちはこうして童貞の童貞による童貞のためのサークルで互いの傷を舐めあっているだけだ! 無様だと思わないのか!」
 お前に何が分かる、と誰かが言った。そうだそうだと俺たちは声を上げる。だがイズモの大音声はその野次を吹き飛ばしていった。
「私には分かる。なにせ私はまだこの地が日本と名を冠する前から君臨した恋愛神である縁結びの神、その見習いにして次代後継者イズモなのだからな!」
 またそれか、と俺は渋面を作った。周りを見ると、部員の誰もが首をかしげていた。ぼそりと誰かがつぶやく。
「……縁結びの神の、見習いって……何?」
当然の反応である。俺は深く頷いた。
「私のことなどどうでもいい。問題はお前たちの将来だ」
 そう言って、イズモはゆっくりと俺たちの顔を見回した。何人かの部員が、イズモと目が合って顔を赤くした。なにせイズモは顔だけは良いから仕方のないことかもしれないが、俺はちょっと情けなくなった。
「いいか童貞ども。お前たちに一つ聞こう。彼女が欲しくはないか?」
 イズモがそう言うと、室内は不気味な静寂に包まれた。部員の一人が、裏返った声で言った。
「べ、別にそんなもの要らないやい! 僕はアニメとゲームで十ぶ」
「バ――カ! バ――――カ!!」
 部員の言葉が終わる前に、イズモの鼓膜も割らんばかりの大声が響いた。この女、どんな声帯構造しているんだ。
「豚! ミジンコ! クラミジア! インキンタムシ! まったくお前は本当にどうしようもないな、その辺のカエルとでも交尾しているがいい!」
 なんで質問に答えただけでこんな罵声を浴びせられなければいけないのか。哀れ我が部員は涙目でうつむいてしまった。
「いいか! お前が本当に恋愛に興味がないならそれはそれでお前の自由だ。だが心の中では興味津々彼女が欲しくてたまらないくせに、その本音を隠して彼女なんて要らないだと! ヘソがティーをボイルするわ! 貴様がそうしてくだらん意地を張っている間にも、刻一刻と世の女たちは彼氏を作り、そして男たちは彼女を作っているのだ! 時間は無限ではない、拙速は巧遅に勝る! グダグダ屁理屈をこねる前に自分の本音と向き合え!」
 イズモは一層の大声を張り上げた。気のせいか、部室の壁までもが小さく揺れたような気がした。
「いいか、もう一度聞く! 彼女が欲しいか!?」
 再び、沈黙。だがやがて、誰かがぽつりとつぶやいた。
「……そりゃ、欲しいけど」
 俺も、僕も、と数人の声が続く。イズモが満足げに頷いた。
「よろしい。ならば私に任せろ。お前たちに彼女を作ってやる」
「そ、そんなこと、できるわけがない」
 部員が言った。冷静に考えて「お前に彼女を作ってやる」と言われて「そんなことできるわけがない」と答えるのも情けない話なのだが、周囲からはそうだそうだと賛同の声が上がった。
「彼女いない歴十八年だぞ、そう簡単に彼女なんてできるもんか」
「俺は二十年だ」
「僕は中三のときにクラスメイトのミキちゃんに振られて以来、女の子と話したことがない」
「俺なんて自作のポエムを添えたラブレターを書いたら目の前でビリビリに破られたことがある」
「いやお前それはキモいよ」
 喧々諤々(けんけんがくがく)、とはまさにこのことだろう。部室の中は昼下がりの国会中継のごとく荒れ模様を見せた。だがそこにイズモの声が再び響く。
「いや、できる! 約束しよう。今から一ヶ月以内に、今この場にいる六名、全員に彼女を作ってやる!」
 一瞬の、耳に痛いほどの沈黙。そして次には、先ほどよりも一層大きくなった怒号が飛び交い始めた。
「ふざけんな、全員に彼女なんてできるわけないだろ! この中で一人でもできたら驚天動地だぞ」
「一ヶ月で何ができるんだよ、こっちは二十年必死こいて生きてきた挙句彼女がいないんじゃ」
「帰れ、それができないならいっそ彼女になってくれ!」
「あっお前なにどさくさに紛れて告白してるんだ。くそ、イズモさんとやら、こいつより俺の方が背が高いぞ!」
「俺の方がバイトで金を持ってる!」
「俺の方がイケメンだぞ! 比較的!」
(……なんだか議論の焦点がずれてきたぞ)
 その様子を見て、イズモはふふんと鼻で笑った。
「案ずるな。慌てずともお前たちは一ヵ月後、必ずや栄光のリア充生活を手にしている。この私がサポートするのだ、万に一つとて間違いはない。想像してみろ。周囲の大学生がうらやましそうに見てくる中、彼女と手をつないでキャンパスを歩く。昼食は学食デート、放課後は待ち合わせて渋谷のカラオケ、週末は二人で水族館でも映画でも、あるいはもっとオシャレで楽しくてキラキラした場所でも行きたい放題だ。どうだ、楽しみだろう!」
 俺はちらりと周囲の部員を見た。いずれもだらしない顔をして、虚空にふわふわと視線を漂わせていた。
 そして俺は、この時点にいたってようやく気づいた。最初はイズモに対して反感と恐怖しか抱いていなかったはずの部員たちは今や、イズモの桜色の唇から発せられる一字一句を聞き逃すまいと、じっとその話に聞き入っている。
「お前たちは一ヵ月後、むせび泣いて私に感謝しているだろう。お前たちの横には、可愛らしくも美しい彼女が、微笑んでお前たちを見つめていることだろう。
 私はここに、縁結びの神の名にかけて誓おう。一ヵ月後までに、お前たちに彼女を作ってやる!」

***

 このイズモという女。弄するは詭弁にして空論、実に信用ならない。
 ならないが、少なくとも弁論家としての才覚はあるらしい。つい先ほどまで部室に満ちていたぴりぴりした空気は霧散している。今や、部員たちはじっとイズモの言葉を待っている。
 イズモはポケットからスマホを取り出して時間を確認した。自称神でもスマホは使うのか、と俺は妙な気分になった。
「午後3時。ちょうどいい。とりあえず手始めとして、今日中にお前らのうち一人に彼女を作ろう」
 まるでカップラーメンを作るかのような気軽さで、イズモは言った。
「お前らの中に、今日彼女が欲しいやつはいるか? ちなみに先着順だぞ」
 手を上げるものはいなかった。俺たちはおどおどとお互いを見回した。イズモはちっと舌打ちをした。
「つまらん。チキンか貴様ら。仕方ない、私が選んでやるからありがたく思え。おいお前」
「え? ぼ、僕ですか?」
 イズモが指差したのは、今年このサークルに入ったばかりの一年生だった。高木(たかぎ)俊介(しゅんすけ)。先ほど、コピー機の前でテニスサークルともめた新入生である。
「そう、お前だ。高木俊介。お前に今日中に彼女を作ってやる。良かったな、泣いて感謝していいぞ」
 イズモは大きなファイルを再び手にしていた。先ほど食堂前で見たものと同じだ。大量の人間の顔写真がストックされているのが見えたが、まさか本当に全人類のデータがストックされているのだろうか。まさか、と思いつつも俺は否定しきれないと思ってしまった。
 哀れな高木君は顔を真っ赤にしたかと思うと、鯉のように口をパクパクと開閉させた。一方イズモは彼に頓着せずクリアファイルをぱらぱらとめくりながら言う。
「ちなみに高木俊介。お前好きな女性芸能人はいるか?」
「え……まあ、その……堀○真希、とか、好きですけど」
 ああ堀○真希ね、可愛いよね、俺写真集持ってるわ、とうっとりつぶやく者が数名。かく言う俺も彼女のファンなので、高木君の言葉に深く頷いて同意した。あれは可愛い。
 高木君がおずおずとイズモに話しかける。
「あの、まさか、堀○真希と、付き合えるんですか……!?」
「そんなわけないだろう身の程を弁(わきま)えろクソ童貞今すぐ肥溜めに突っ込んで自殺して生き返りもう一回死ぬがいい」
 イズモは流れるように暴言を吐いた。彼女は涼しい顔をしたまま言った。
「単に私は、お前の女性の好みを知ろうと思っただけだ。そのほうがお前もやる気が出るだろうし、どうせ縁を結ぶなら少しでも好みのタイプと付き合ったほうが長続きするからな。なにが堀北○希と付き合えるんですか、だ妄言も大概にしろさすがの私もドン引きしたぞ」
 あの文脈だとそう思っても仕方がないだろう、と俺は深く高木君に同情した。高木君はなにかをこらえるようにじっと上を向いて瞬きを繰り返していた。
「なにを勘違いしているのか知らんが、私は縁結びの神見習いであって全知全能の万能神ではない。ありえないことを現実にすることは、私にはできない」
 だが、とイズモは言葉を続けた。
「ありえる可能性を手繰り寄せることはできる。お前らのようになんの取り柄もない童貞の見(み)本市(ほんいち)みたいな連中でも、なにかの間違いで好きになってくれるかもしれない女性というものが存在する。蓼(たで)食う虫も好き好きだからな」
「……あの、部長。僕たち、なんかすごい馬鹿にされてませんか」
「いまさら気づいたか高木君」
 俺はもはや諦めきった気分で言った。
 ぱらぱらと凄まじい勢いでファイルをめくっていたイズモの指が、あるときぴたりと止まった。彼女はじっとファイルを見つめたあと、
「うん、こいつでいいだろう。東京大学文科三類二年、笠野(かさの)扶美(ふみ)。顔も堀北真○に似ていると言えなくもない。喜べ高木、お前の未来の彼女が決まった」
「そ、その人は、堀北真○に似ているんですか?」
「ああそっくりだ。目も鼻も口もある」
 それ当たり前じゃね? とは俺たち全員が抱いた感想だったろう。
「今から高木の高木による高木のための彼女ゲット作戦を開始する。恐れるな、私が指揮を執る以上勝利は約束されている。さあ行くぞ」
 そう言ってイズモはむんずと高木君の手をつかみ、彼をズルズルと引きずって部室をあとにした。しばらくのあいだぽかんとして開け放たれた部室の扉を見つめていた俺たちだったが、我に帰ったあとに慌ててそのあとを追った。

「ターゲット――笠野扶美は、毎週この時間は図書館の四階で自習する習慣がある。今の時期は試験がないから人も少ない。好都合だな」
 イズモについて来た俺以下サークル部員数名は、図書館の書架の影にじっと身を潜めていた。特にやましいこともしていないのだが、なんとなく目立ちなくなかったのだ。
 図書館の四階には奥に自習スペースがありいくつかの机が並んでいるのだが、いかんせん分かりにくい場所にあることもあり、人気は少ない。そっとのぞいてみると、女子生徒が一人だけ、黙々とノートに何事か書き込んでいるのが見えた。
 イズモがファイルと女学生を見比べながら言う。
「うん、あれが笠野扶美だな。間違いない」
「そのファイルに書いてあるのか?」
「ああ。男女問わず生年月日や友人関係、好きな食べ物から交際歴まで何でも書いてあるぞ」
「マジかよちょっと見せてくれ」
「ダメだ。部外者の閲覧は禁じられている」
 俺が手を伸ばすと、イズモはひょいとファイルを閉じてしまった。
「そんなことより、早速ミッションだ。さあ高木。笠野に話しかけて来い」
「ええ? 無理ですよ、僕女性と話したことなんてここ数年ないのに」
「なら女と話していると思うな、床に転がったジャガイモに話しかけていると思え」
「そんな無茶な!」
「多少の無茶をせずに彼女ができるか、いいからグダグダ言わずに行け」
「無理です無理です、なに話せばいいんですかぁ!」
 高木君はもはや半泣きになっていた。イズモは盛大にチッと舌打ちをしたあと、再びファイルを開いた。
「笠野扶美……と。なにか使えそうな情報はないか。……む」
 せわしなくファイルの上を行き来していたイズモの目線が、ある一点で止まる。
「好きな食べ物はマカロンとチーズケーキ。ふむ、なるほど。よし高木、マカロンだ。マカロンの話をするんだ」
「マカロンの話をするんだって言われても、いったいどうやって?」
「そんなものは自分で考えろ。案ずるな、世の中の女子大生の73パーセントはマカロンに興味津々だという統計がある」
「なんですかその得体の知れない統計、いったいどこの誰がそんななんの役にも立たなさそうなデータを」
「やかましい。さあ行って来い!」
 そう吐き捨てると、イズモは勢いよく高木君の背中を蹴り飛ばした。哀れな高木君はたたらを踏んで笠野さんの前に出てしまった。俺たちは慌てて顔を引っ込めて物陰に隠れ、息を潜めながら高木青年の動向を見つめた。
「え……?」
 高木君を、驚いたような目で見つめる笠野さん。さあ賽(さい)は投げられた、と俺たちは固唾を飲んで見守った。
「あ……えっと……」
 高木君は顔を赤くしたり青くしたりしながら、異様な量の脂汗を流していた。握り締めたこぶしは痙攣し、見開いた目は充血している。
 どう見ても変質者であった。
 笠野さんは、椅子から腰を浮かせて半立ちになっていた。
「……マ、マカロンみたいなヘアピンですね」
 高木君の第一声はそれだった。彼の目は笠野さんの頭部に装着された、ピンク色のヘアピンに注がれていた。
 影で見守る俺たちのあいだに、重苦しい空気が流れた。だれかがぼそりとつぶやく。
「……マカロンみたいなヘアピンって、なんだよ」
 哀れな高木君。この女の「マカロンの話をしろ」なんて馬鹿な助言を真に受けたばっかりに。俺はそう思いながらイズモを見て、そして目を見開いた。
 イズモは笑っていた。にんまりと、してやったりと言う風に。
「おい、武藤。見ろ」
「見ろって、何を」
「無論、高木だ。彼は第一歩を踏み出した」
 何を言っているんだと眉をひそめる俺。仕方なく高木君へと目を向け、俺は目をむいた。
 笠野さんはくすくすと笑っていた。そして自分の頭に手を添える。
「凄いです、よく分かりましたね? これフェイクスイーツって言って、お菓子をモチーフにしたアクセサリーなんですよ。小さいし地味だから、これまで気づいてくれた人いなかったんですけど」
 笠野さんはそう言って白い歯を見せた。一方で高木君はなにがなんだか分からないとばかりに、目を白黒させていた。
「……マジかよ」
 俺は思わずつぶやいた。
 そのまま高木君と笠野さんは会話を続けた。恐るべきことに、笠野さんの楽しげな表情から考えるとなかなかいい雰囲気のようだ。高木君はときどき「僕もそう思います」か「それはどういうことですか」と言うだけなのだが、なかなかそのタイミングは絶妙のようで、笠野さんはにこにことしゃべり続けていた。
「あ、もうこんな時間。私喋りすぎたね。ごめん高木君」
「い、いや。別に、ぜんぜんいいよ」
 二人の会話からはいつの間にか敬語も取れていた。
「高木君、まだ時間ある? よければ広場でもうちょっと話さない?」
「あ、う、うん。もちろん」
「良かった。待ってるね」
 そう言って笠野さんはとんとんとんと階段を下りていった。あとには頬を染めて、呆然と虚空を見つめる高木君が残された。
 笠野さんの足音が聞こえなくなるのを待って、俺たちは高木君に殺到した。そしてその肩をバシバシと叩きまくる。
「おいやったな高木!」
 部員がそう言っても、高木君はさしたる反応を示さないままだった。だがあるとき、彼の頬をつうと涙が伝った。
「……僕、同世代の女性と会話したの、数年ぶりです……! ああ、楽しかった……!」
 眼鏡の奥の目を細めて、彼ははらはらと落涙した。俺たちは深く共感し、うんうんと頷き高木君の健闘をたたえた。部員の中には涙ぐんでいる者もいた。
 その感動的な雰囲気の中、場違いに冷静な声が一つ。
「おい高木、なにをぼうっとしている。本当の勝負はこれからだぞ」
 イズモだった。彼女はくいと階段をあごで示した。
「下で笠野扶美が待っている。急げ、待たせるな」
「あ……はい!」
「ああ待て、それから」
 イズモはリュックサックをごそごそと漁ると、なにやら小さな機械を取り出した。俺はしばらく考えてそれが何であるかに気づき、首をかしげる。
「……イヤホン?」
 ワイヤレスタイプのもので、一見すると黒い豆のようにも見える。イズモはそれを一つ高木君に手渡した。
「これを装着しておけ。場合によっては私が指示を出す。そのイヤホンは集音機能もあるから、お前たちのやり取りは私にも聞こえる。適宜指示を出すから従え」
 高木君は慣れない手つきでイヤホンを耳に入れた。その背中をどんとイズモが押す。
「さあ行け。お前の未来の彼女が待っている」
 高木君は慌てて階段を駆け下りていった。そのあとを、俺たちは大慌てでついていった。

 生協購買部にてジュースを購入した高木君と笠野さんは、図書館横の広場の片隅に据えられたベンチに腰掛けて談笑した。
 驚くべきことに、二人の会話は順調に弾んでいるようだった。俺たちは図書館の建物の影にぎゅうぎゅうと体を詰めあいながら、じっと高木君の動向を観察していた。
『その友達、結局社会人の人と付き合っちゃったんだよ。今でも続いているみたい』
『へえー……』
 イズモの持ったスマホから、高木君たちの会話が漏れ聞こえてくる。高木君が装着している集音機能付きイヤホンのおかげで、俺たちは彼らの会話を余さず盗み聞きすることが可能となっていた。
 笠野さんはよくしゃべる女の子のようで、今も社会人に口説かれた高校の同級生の話を楽しそうにしていた。かれこれ一時間ほど高木と笠野さんは話しこんでいるが、この二十分ほどは恋愛関連の話題が増え始めていた。そのさなかで、笠野さんには彼氏がいないことが分かっていた。
 今、高木君と笠野さんの会話は小休止に入っている。スマホ越しに聞こえる声は今は途絶えていた。
「高木。さきほど笠野が図書館で勉強していたことを聞け」
 イズモの指示が飛ぶ。先ほどからイズモは、こうして話題につかえるたびに高木君に次に取るべきアクションを伝えていた。
『笠野さんはさっきまで、図書館で何の勉強をしていたの?』
『うん? 科学史のレポートを考えていたの。友達に勧められて取ったんだけど、難しくていやになっちゃう』
『そうなんだ。それ、僕も取ってるよ』
『本当? よければ教えてくれない?』
『いいよ、もちろん』
『やった! えっとね、まず……』
 再び会話が盛り上がりを見せる。俺は信じられない思いでイズモを見た。
 この自称縁結びの神様見習いが先ほどから高木君に与えている指示は、そのことごとくが的確なものだった。現に高木君と笠野さんは、今日が初対面とは思えないほどに親しげにしていた。
「いや……これは、本当に付き合えるかもしれないな」
 部員の誰かがぽつりと言った。
「そうだな。時間をかけてゆっくり仲良くなっていけば、きっといける」
 俺は言った。高木君、頑張れ――。頬を強張らせ、しかし楽しそうにしゃべる彼の横顔を遠目に見ながら、俺は心の中で祈った。
 だがそのとき。首だけグリンと回して俺たちの方を向いたイズモは、「はあ?」と眉をしかめた。
「お前ら、私が言ったことをもう忘れたのか。まったく救いがたいド阿呆どもだな」
「え?」
 呆気に取られる俺の前で、イズモは当然のように言い放った。
「私はこう言ったはずだ。今日中に高木に彼女を作ってやる、と」
「え、……いや、でもそれは……」
 口ごもる俺。一方イズモは、微塵の躊躇もなく高木君に言った。
「高木。告白しろ」
「ブ――――ッ!」
 俺は吹き出した。ちょっと待てと慌ててイズモに詰め寄る。
「いくらなんでも急すぎるだろう! 今日会ったばかりの人間に告白だなんてそんな軽薄な」
 俺がそう言うと、周囲の部員も同調して声を上げた。
「そうだそうだ」
「せっかくいい雰囲気なんだから、それで十分だろう」
「あせりすぎだよ、もっとじっくりいこう、イズモさん」
 だがイズモはきっと俺たちをにらんだ。その目に揺れる怒りの色を見て、俺はひるんだ。イズモは大声を出した。
「シャラーップ、黙れ童貞ども! だからお前たちはダメなんだ!」
 イズモは叩きつけるように言った。
「告白に早いも遅いもあるもんか、一番盛り上がったときに告白する、それだけを考えればいいんだよ! 言っておくが、高木が今日以上に笠野と会話を盛り上げられる日は二度と来ないぞ。いいか、大前提を忘れるな。お前たちは一人残らずモテないクソ虫で、全人類の男性の中でもド底辺をはいずるミミズみたいなものなんだ!」
 イズモの剣幕には鬼気迫るものがあった。俺たちはそろって後ずさった。
「今の高木は不当に高い評価を得ている状態だ。笠野はあいつをユニークで面白く、気配りのできる人間だと勘違いしている。その誤解が解ける前に勝負をつけなきゃいけないんだ。時間をかければかけるだけ化けの皮がはがれるだけだ、冴えないモテないつまらないの三拍子揃った素顔が見えてくるだけだ! チャンスは今しかない!」
 イズモは言った。俺は小さな声を出す。
「で、でも。それは相手を騙しているようなものなんじゃ……」
「そうだ。武藤、分かっているじゃないか」
 イズモは頷いた。
「いいか、恋愛は騙し合いだ。その表現がいやなら、一種の面接試験だと思えばいい。少しでも自分をより良い人間に見せかけ、女性を騙しとおす。それこそが恋愛の真髄であり、世の中の男性が無意識に身につけている常識だ。お前たちにはその〝常識〟に対する理解が足りない」
 俺は何を言っていいのか分からず、黙り込んだ。
 イズモはスマホに向き直った。そして再び高木君に言う。
「今のやり取りは聞こえていたな? もう一度言うぞ。高木、告白しろ。チャンスは今日しかない。騙せているうちに騙し切れ、恋愛に必要なのはその覚悟だ」
 スマホの向こう側からは、不気味なほどの沈黙が聞こえていた。だがやがて、高木君の声が聞こえてくる。
『あ、あのさ。笠野さん』
『なに? 高木君』
『僕、君に言わなきゃいけないことがあるんだ――』

***

 4月も後半に差し掛かり、道路の両脇に並んだ桜の木は花びらを散らせてしまっている。夜風に枝が寂しげに揺れていた。
 俺の家は後楽園にあるマンションだ。少々駅からは遠いが、家賃は安く部屋は広い自分の部屋を俺は気に入っていた。
 夕食の材料を入手するべく、近所のスーパーへ向かう俺。すでに時刻は夜の八時を回り、日はとっぷりと沈んでいた。
(……イズモ)
 我がサークルの部員に、今日初めて彼女ができた。歴史的快挙といえるだろう。
 だがその立役者の姿は、高木君の告白の成功とともにふっと消え失せていた。笠野さんが高木君にオーケーを返すとともに、ひょいとイズモはジャケットを翻してしまった。
 ――明日、また来る。
 短くそう言い残して、イズモは去っていった。俺を含め何人かで呼び止めたが、ついにイズモが振り返ることはなかった。
(あいつは、何者なんだろうな)
 今夜は思った以上に冷え込んでいるようだ。俺はコートの裾を押さえながら思う。イズモは今頃、何をしているのだろうか。
 縁結びの神見習い。いまだに信じてはいない。信じてはいないが、だがイズモには不思議な力があるのもまた事実だ。
 お前たちに彼女を作ってやる。イズモの言葉を思い出した。高木君の一件を経た今、あの言葉はある程度の真実味を伴って俺の胸に響いた。
 彼女。なんと甘美な響きだろう。十九年間あこがれ続けてついに手の届かなかった幻の秘宝。俺がそれを手にする日が来るというのか。
 俺の心に、期待や興奮がせり上がってくる。だが一方で、妙なわだかまりのようなものも、俺は感じていた。
(あれ。なんだ、これ――)
 俺は胸に手を当てた。もちろんそんなことで何が分かるわけでもない。俺は首をひねりながら、スーパーへ向かって歩を進めた。
 自動ドアをくぐり、店内へと足を踏み入れる。客の姿はまばらで、俺はカゴを取って商品を選び始めた。
「そうだな。今夜は何を作るか……」
 あの自称縁結びの神見習いのせいで、今日はずいぶんと疲れてしまった。さくっと生姜焼きでも作って済ませようか、と俺は肉コーナーへ向かう。
「さて、どの豚肉が良いかな」
 俺は陳列棚で冷えた豚肉のパックを順番に見比べていった。一人暮らしを初めて一年が過ぎ、それなりには食べ物の選び方も分かってきたつもりだった。
「色が良くて、ドリップが少ないもの……これなんか、なかなか……」
「それも悪くないが、こっちの方が色はいいぞ。量も多いし」
「ああ、確かに。でもこんな量は一人では食べ切れ――」
 そこまで言った時点で、俺は思わず奇声を上げながら飛び上がりそうになった。
 イズモは俺の横で何食わぬ顔で肉を物色していた。相変わらずむやみやたらに作りのいい顔で、じっと陳列された肉のパックをにらんでいる。イズモの絹のようにさらさらとした髪が、少しだけ俺の手に触れていた。
「なるほど、生姜を買っているところを見ると今夜は生姜焼きだな? 素晴らしい、私も生姜焼きは好きだぞ武藤」
「お、お前、いつの間に……」
「馬鹿かお前は。お前が大学を出たときからずっとここまでついて来たのだ。満を持してこうして近づいてきた」
「な、なんのために?」
 俺の疑問に答えず、イズモは「うん、これが良さそうだ」と言って二人分の豚肉をひょいひょいと俺のカゴに放り込んだ。
「私は今日人間界に来たので、実は衣類やら食料やら色々足りていない」
 イズモはつかつかとスーパーの中を歩きながら言った。
 飲み物コーナーの前でドリンクを物色しながらイズモは、
「なかでも困っているのが住居だ。最近は神様も不景気でな、今回私が人間界に出張るに当たって補助金がほとんど出ていない。しかも宿は自分で探せと言われてしまった。繰り返したが、非常に困っている」
「そうか、それで?」
「お前の家に泊めてくれ、武藤」
「冗談じゃないです」
「そうか、ありがとう。今日からよろしく」
 致命的な意思疎通の齟齬を感じた俺は、目の前が急速に暗くなったような気がした。
「案ずるな、私は家事は一切しないからな。お前はこれまで通り掃除洗濯食事の用意にクリーニングをやってくれればいい」
「そこまでふてぶてしい条件で人の家に居つこうとしているお前に驚きを禁じえないが、いずれにせよ絶対に駄目だ」
「明日の朝食は洋食でいこう。オムレツが食べたいな。卵を買おう」
 人の話を聞かず、イズモはぼんぼんと俺のカゴに商品を放り込んでいく。俺はイズモの肩をつかみ、無理やりこちらへと振り向かせた。
「なんだ武藤、痛いぞ」
「お前が人の話を聞かないからだ。いいか、お前が俺の部屋に泊まるのは絶対に駄目だ」
「どうして」
「逆に聞くが、お前若い女が男の家に軽々しく泊まっていいと思ってるのか」
「いかんのか? その辺の大学生なんぞどいつもこいつも男の家に上がりこんで泊まっていくじゃないか。泊まっていくだけじゃ飽き足らずしまいには……」
「ああいい、人前でそういうことを言うな、恥ずかしい。とにかく、駄目だからな!」
 そう言い聞かせ、俺はふいと顔を背けた。ふむ、と横でイズモが息をつく。
「どうしても駄目か?」
「どうしても駄目だ」
「なら仕方ないな。武藤、こっちを向け」
 なんだよ、と俺はイズモに向き直る。イズモは見たこともない真面目な顔をして言った。
「武藤。右手を出せ」
「右手? まあ、いいけど……」
 俺は買い物カゴを床に置き、イズモに右手を差し出した。
 そしてイズモは俺の右手をむんずとつかみ、何を血迷ったか自分の胸に押し当てた。信じられないくらい柔らかい感触が、ジャケット越しにも伝わってきた。
「ウッソ!?」
 俺は慌てて飛び退った。だがそれより少し早く、いつの間にやらイズモの右手に構えられたスマホがパシャリとカメラ音を立てた。火照っていた俺の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
 イズモは見たこともないくらい邪悪な笑みを浮かべて、スマホの画面を俺に見せてきた。その写真では俺が右手を伸ばし、なぜか頬を赤らめたイズモの胸を鷲掴みにしていた。
「さあ武藤、この写真をばら撒かれたくなかったら……どうすればいいか、分かるな?」
 完全に悪党の台詞である。俺は動転しながらも反撃を試みた。
「お、お前が無理やり触らせたんだろうが! 俺の意思じゃない!」
 イズモはふんと鼻を鳴らした。
「そんな現行犯逮捕された痴漢の言い逃れみたいな弁解が通ると思うか。大体世の中は性犯罪の立証に関しては女性のほうが圧倒的に有利なのだ、恨むなら司法を恨め武藤」
 俺は絶句した。一方でイズモはしてやったりとばかりの笑みでスマホをいじっている。
「それにしても実に見事に撮れたな。完全に場所も弁えず発情した男子大学生の図だ。写真越しに鬼気迫るほどの性欲が滲み出ているな。あーヤダヤダ」
 なんでこんなことを言われなくてはいけないのか、と俺は思った。
「お前が性犯罪者の汚名を逃れる術は一つ。今後しばらく、私に衣食住を提供すればよい話だ。では改めて、これからよろしく頼むぞ。武藤」
 しばらくのあいだ呆然とイズモを見つめたあと、俺はがっくりとうなだれた。

「食べた食べた。お腹一杯だ」
「ああ本当によく食べたよお前は、俺の分の生姜焼きまでモリモリ食いやがって……」
「そうかそれは悪かったな。お詫びに冷凍庫のアイスを一つやるから泣いて感謝していいぞ」
「そもそもそれは俺のアイスだけどな」
 午後十時。食事を終えた俺は、キッチンで皿を洗っていた。横目にちらりと、リビングのフローリングにごろりと寝転がる女の姿を見る。
 イズモはジャケットを脱いでいた。白いTシャツの袖からは白く透き通った肌がのぞいている。勝手にキッチンから拝借したコップに勝手に冷蔵庫から取り出したオレンジジュースを注ぎ勝手に本棚から失敬したマンガを、イズモは床に転がりながら読んでいた。どこまで図々しいんだこいつ。
 皿を洗剤とスポンジでごしごしと洗い、流し台の上に積んでいく。イズモはとんでもなく横暴な女だが、食事をきちんと最後まで綺麗に食べるところだけは評価できた。
 俺は皿洗いを終え、リビングに置かれた椅子に座った。おりしもイズモはマンガに飽きたらしく、ひょいと立ち上がったところだった。
「せっかくだ。武藤、私の寝床を決めよう」
「……お前、マジで泊まるつもりなの?」
「無論。安心しろ、押入れの中でも構わんぞ。私がおおらかな心の持ち主でよかったな」
「うちに寝床にできるような押し入れなんてないし、お前は断じておおらかな心の持ち主ではない」
「そうなのか? 日本の家庭には人が一人入れるくらいの押し入れが常備されているとばかり思っていたが。あるマンガに登場した猫型ロボットがそうしていたぞ」
「どの作品を参考にしたのか大体察しがつくが……ああいうのは家族で暮らす家庭だからこそ、広い押し入れがあるんだ。うちは一人暮らしだし、そんなに間取りにゆとりはない」
「ふうん。そんなに狭い家に住むなんて、お前貧乏人なのか?」
「普通はお前みたいな奴を泊まらせることなんて想定しないんだよ……」
 俺はげんなりとため息をついた。
「なら仕方ない。お前の寝室にベッドがあったな。私はあれで我慢しよう」
「あれは俺のベッドだ、俺はどこで寝ればいいんだよ」
「床」
 もはや言い返す気力すら失せた。俺は最後の抵抗を試みた。
「ちなみに、俺がどうしてもいやだと言ったらどうするつもりだ?」
「お前が私の胸を揉みしだいている例の画像を、私が知る限りのあらゆる連絡先に一斉送信する」
 救いはないのか。俺は深々とため息を付いた。
「分かった。ベッドは使っていい。一応、布団は昔のを取ってあるから、俺はあれを使おう」
 俺がそう言うと、うむとイズモは鷹揚に頷いた。態度でかいな。
「でも、なんで俺の家なんだ? 宿を取る金がないにしても、他の奴の家に行けばいいじゃないか。俺なんかよりよっぽど広い家に住んでいる連中だっているぞ、そいつらの家に泊まったほうがよほど快適だ」
 俺がそう言うと、「ふむ」とイズモはあごに手を当てた。
「もちろんそうだ。だが私は、お前と衣食住をともにしたい理由がある」
「理由……?」
 俺は眉をしかめた。
「どんな理由だよ、身に覚えがないぞ」
「もう言っただろう。お前は人類でも稀有なモテないオーラの持ち主だ。お前ほどに異性に縁のない人類はいない。縁結びの神としてはいっそ興味深いくらいに。それが理由だな」
「だから、俺はそこまでモテないわけではないと……」
「そんなことはない。証拠を見せてやる」
 そう言うと、イズモはリュックサックを漁り、例の巨大なファイルを取り出した。そして凄まじい勢いでそれをめくったあと、おもむろにファイルの一ページをこちらに向けてみせる。
「見ろ、これがお前のページだ」
「部外者には見せられないって言ってなかったか?」
「本人には見せていいんだ。あくまで個人情報保護の観点からの措置だからな」
「ときどき思うけど、お前自称神様のくせに現代的だよな」
 俺は机の上にどんと置かれたファイルに目を注いだ。見開き二ページ分の紙、その左上に印刷された顔写真は、確かに俺の顔だった。横には『武藤祥吾』と俺の名が書いてある。
 古ぼけた紙に、小さな文字でびっしりと書き込んである。見ると、俺の卒業した小学校から仲のよかった友達や好きな食べ物、そのほか俺のありとあらゆる個人情報が書かれている。『最後のお漏らしは小学四年生のとき』などという記述を見つけたときは思わず奇声を上げそうになった。ちなみに交際欄というものがあり、俺のページはそこに赤文字で「交際歴:なし」と記されていた。なんとなく悲しい気分になった。
「このファイルは縁結びの神とその見習いに支給されるものでな、全人類のプロフィールが余さず書いてある。我々は閻魔帳と呼んでいるがな」
「へえ……。なあ、ずっと気になっていたんだが」
 イズモは「なんだ」と言って俺を見た。
「お前は、本気で自分を縁結びの神様だと思っているのか?」
「本気も何も、事実だ。性格には縁結びの神〝見習い〟だがな。いつになるかは分からんが、次代の縁結びの神は私が継ぐことになっている。その前に人間界で修行して来いということで、本日お前の前に現れたわけだ」
「修行?」
「ああ。私は次代の縁結びの神になる。だがその前に、こうして人間界で実際に人間とふれあい、彼らの恋愛のサポートをして修行を積まねばならないのだ。実地経験なくして神は務まらない」
 イズモは机の上に置かれた巨大なファイル――閻魔帳をとんとんと指で叩いた。
「この閻魔帳は、私が縁結びの神であることの証拠になる。お前たち人類にはこんなものは作れないし、作る意味もないだろう」
「……まあ、確かにな」
 これだけの量の個人情報を集めるとなると、果たしてどれほどの時間がかかるのか。想像もできない。改めて見ると、イズモが「閻魔帳」と呼ぶファイルの分厚さは、十センチを優に超えるものだった。本当に全人類の個人情報が入っているのだろうか、と俺は空恐ろしい思いで閻魔帳を見た。
「さて、お前がその愚かしい頭でようやく納得を示したところで話を戻そう。お前がモテないという根拠だが、それはお前の『モテ・ポイント』を見れば一目瞭然なのだ」
「モ、モテ・ポイント……?」
「そうだ。モテ・ポイントは容姿や性格、家柄や会話力など、ありとあらゆる異性との交流に必要な情報を総合し採点したものだ。言ってみればモテ・ポイントが高い者はそれだけモテるし、モテ・ポイントが低い者は異性にとってその辺に落ちている犬の糞と同じ程度の価値しかない、ということだ」
 イズモの細く長い指が、すっと閻魔帳のある一点を指差した。そこにはこう記されていた。
 ――武藤祥吾のモテ・ポイント。87点。
「87点? 別に悪くないじゃないか」
 俺は憮然とした思いでイズモを見た。だがイズモは「ハッ!」と実に人を小馬鹿にしたような顔で俺を見た。
「誰が100点満点だと言った。お前東大生の癖にそんなことも分からんのか」
「なんだよ、じゃあ何点が満点なんだよ」
「5000点だ」
 俺は思わず目をむいた。5000点中、わずか87点?
「ちなみに全人類の平均は1900点前後だ。お前たち日本人が大好きな偏差値に直すとお前は、えーと……ざっと偏差値12くらいか」
「へ、偏差値12?」
 聞いたことのない数字である。それだけじゃないぞ、とイズモは続けた。
「お前が所属しているあのサークルだがな。モテ・ポイントが500点をオーバーしている者は一人もいない。人類全体を俯瞰しても珍しいほどの非モテ集団だ。まったく類は友を呼ぶとはよく言ったものだな」
 俺は言葉を失った。俺のサークルの友人たちの顔を思い浮かべる。いずれも魅力的な友人たちだ、だが、異性から見て魅力的であるかと言われると、確かに首を傾げざるを得ない。
「お前たちのようなモテない男だけが純粋培養された集団はそうはない。だからこそ、お前たちに彼女を作ってやることは、私にとって素晴らしい経験になるだろう」
 イズモはパタンと閻魔帳を閉じ、リュックサックにしまった。
「……にしても、確かに妙ではあるな」
 イズモがぽつりと、何事かをぼそりと言った。
「武藤祥吾は絶世の美男子と言うわけではないが、別に顔は悪くはない。会話もそれなりにできているようだ。なぜここまでポイントが低く出ているんだ……?」
「どうした、イズモ」
「いや、なんでもない」
 イズモは椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。
「じゃ、私は風呂に入るとしよう」
「家主の許可を取るとかそういう発想はないのかお前」
 俺の言葉に返事をせず、イズモは洗面所に消えて行った。しばらくして、するすると衣擦れの音が聞こえ始める。
 俺はなんとなく居心地が悪くなってきたので、自室に撤退することにした。


2章

 平日の朝寝坊が合法的に許されているのは大学生の特権と言っても過言ではないだろう。カーテンからは日差しが細く差し込んでいるが、俺はどこ吹く風で布団の上に転がっていた。
 布団の横の時計を見ると時刻は朝の九時を少し過ぎたところ、まっとうな社会人であれば真っ青になって慌てて家を飛び出さねばいけない時間だろう。だが今日の俺の授業は三限から、つまり午後の一時に大学に着いていればいい。
 頑張れニッポンのサラリーマン俺も布団から熱いエールを送るぞ、とつぶやいたのち、俺はもそもそと毛布をかぶり直した。本日は存分に惰眠を貪る所存である。
 だがそんな俺に話しかける、耳障りな声が一つ。
「おい武藤。起きろ。朝食を寄越せ」
 聞き覚えのある声だった。だが俺の脳は、その声の持ち主について思考することを拒否した。寝る、今の俺にとってはそれだけが大事だった。
「私を無視するとはいい度胸だ。その代価は高くつくぞ」
 誰かが何かを言っている。知ったことか、と俺はぎゅっと目蓋を閉じた。
 ごそごそ、と妙な音がした。俺は半分寝ながら、その音をぼんやりと聞いていた。
「ふむ。これが武藤の携帯電話か。暗証番号は昨日こっそり見ておいたからな、ロックを解除するのは簡単だ。さて、連絡先は……お、二百三十三人。なかなか友人は多いようだな。では彼らのメールアドレスを私の携帯に転送して、と」
 ん、ちょっと待て。何やってるんだこいつ。
「武藤が私の胸を揉みしだいている画像を添付したメールを、よし、一斉送し――」
「止めろォーッ!」
 俺は慌てて飛び起き、俺の布団の横に座り込んだイズモから携帯を奪い取った。
「おおようやく起きたか武藤。さあ朝食を作れ。オムレツな」
「いやお前、いま何をしようとしてた?」
「お前がなかなか起きないからな。ちょっとお仕置きしようと思って」
「お仕置きってレベルじゃないからな、俺が社会的に死ぬからなそれ」
「嫌ならさっさと朝食を作れ。あと十分以内に用意しろ、さもなくばお前が私の胸をまさぐっている写真をネットにアップロードしお前の社会的生命を半永久的に抹殺するぞ」
 そう言ってイズモは、用件は伝えたとばかりにリビングに戻り、椅子にどさりと腰掛けた。もはや自宅のようなくつろぎっぷりである。
 俺は思わず天を仰いだ。いったいどうしてこんなことになったのか――。
 その答えはなく、ただ雀の鳴く声が窓の外から聞こえるだけだった。

「で、お前はいつまで俺の家に居座るつもりなんだ?」
 テーブルの向こう側でにゅるにゅるとケチャップをオムレツにかけているイズモに向かって、俺は尋ねた。イズモはオムレツから目を離さないまま言った。
「言っただろう、一ヶ月以内にお前のサークルの会員全員に彼女を作る、と。それまではここで暮らすつもりだ」
「最近のネットカフェは30日宿泊プランがあるらしいな」
「却下だ、宿泊費や食費を用意できるほどのゆとりは私にはない。縁結びの神様も近頃不景気なんだ」
「ちなみに俺も最近バイト代が足りなくて懐が寂しいんだが、その点何か言うことはないか?」
「心からの応援を送ろう、頑張れ武藤」
「要するにお前は俺に対して宿泊費や食費を支払うつもりは一切ないんだな」
 イズモは当然とばかりにうなずき、ケチャップまみれになったオムレツをガツガツと食べ始めた。俺はこれ見よがしに溜息をついた。
「俺たちに彼女を作る、と言ってもな。昨日の高木君みたいに、毎回うまくいくとは思えないぞ。お前の自信の根拠が知りたいよ」
「武藤、お前は馬鹿だな。何度も言っているだろう、私は縁結びの神様見習いで、お前たち冴えない万年童貞どもを救いに来た救世主だからだ」
 そういうことじゃないんだけどなあと俺は渋面を作る。イズモは言葉を続けた。
「安心しろ、昨日の高木某は序の口だ。だが私の手腕の片鱗は、お前も目の当たりにしただろう?」
「まあ、な」
 いささか強引ではあったが、たしかにこいつは昨日、宣言通り高木君に彼女を作ってみせた。イズモはごくごくとオレンジジュースを飲みながら言った。
「あれは一つのデモンストレーションだ。私に任せれば、どんな馬鹿で不細工で知性に欠けるどうしようもない駄目男でも彼女を作ることができる、とな」
「お前今めっちゃ高木君のこと馬鹿にしなかったか?」
「お前のサークルの男どもはこう考えていることだろう。あのイズモという女に任せれば、こんな俺でも彼女ができるんじゃないか――とな」
 そうかなあと俺は半信半疑でイズモの話を聞いた。
 そのとき、机の上に置かれたイズモのスマホが震えた。イズモは携帯を確認したのち、にやりと笑った。
「言ったそばから、見ろ武藤。依頼だ」
 イズモは俺に携帯の画面を見せた。そこにはメールの画面が表示されている。本文には短く、
『昨日の手際は見事でした。イズモさん、俺が彼女を作る手伝いをしてくれませんか』
 と記されていた。

 メールの送り主は牧原(まきはら)慧(けい)という男だった。イズモにメールを送ってきたことからも分かる通りアメコミ研究会の部員で、俺と同じ二年生である。サークルの中ではそこそこに親しくしている男だ。
 牧原と食堂で待ち合わせ、俺とイズモは学校へ向かった。午後十時を過ぎれば山手線と言えども席が空き始める。俺とイズモは並んで腰掛けた。前に座ったサラリーマン風の男が、助平な顔をしてちらちらとイズモの太腿を見ていた。
「で、武藤。この牧原という男。どんな奴だ」
 イズモがくりくりとスマホをいじりながら言う。俺はふむとあごに手を当てて考えた。
「まあ、なかなかの男前だ。でも俺が以前聞いた話だと、生まれてから彼女が一度もできたことがないと言っていた。多分今でもそうだろう」
 俺は山手線の車窓に映る風景を眺めながら言った。電車は原宿に停車し、派手な格好をした若い女性が数人、カパカパと厚底の靴を鳴らして電車を降りていった。
「牧原の顔だけ見ると、なんでこいつに彼女ができないのかって思うよ。ただこいつは、ちょっと内面に問題があってな」
「つまり、女がドン引きして寄り付かなくなるようなキテレツな性格をしていると言うことか」
「微妙に違うな。牧原は、まあ、その、なんだ。一種の病気なんだよ」
「病気?」
「会えば分かるさ」
 俺は言葉を濁した。山手線のアナウンスは、次の駅が渋谷であることを告げていた。

 食堂の片隅に設置されたソファー席に座り、牧原は俺たちを待っていた。俺たちが牧原に気付くと同時に向こうもこちらに気が付いたらしく、「よっ」と牧原は手を上げてみせた。
 眉は墨を引いたように細く濃い。肉の薄い頬は鋭い輪郭を描いている。くっきりとした二重瞼の下では、黒目がちな目が俺を向いていた。改めて、なかなかの美男子である。
 俺とイズモは牧原の待つテーブルに座った。イズモが早速とばかりに口火を切る。
「さて、お前の要望に応じて来てやったぞ。牧原とやら、喜べ。私がお前に彼女を作ってやる」
 イズモはいつも通りの異様に自信に満ち溢れた口調で言った。一方牧原は、曖昧に笑って頷いた。その頬は妙に強張っている。
(『症状』が出ているのかな……?)
 牧原はイズモから目をそらし、俺に顔を向けた。途端に牧原の顔からは緊張が抜け、穏やかな笑みが浮かんだ。
「武藤も来てくれたのか、悪いな。しかしこう言ってはなんだが、どうしてお前とイズモさんが一緒に?」
「色々と事情があるんだ」
 まさか強制的に同棲状態に持ち込まれたとは言えない。
「武藤もイズモさんも、呼び出して済まない。詫びと言ってはなんだが、今日の昼食でも奢ろうかと思うんだが、どうだろうか」
 牧原がそう言うと、イズモは短く「要らん」と言った。
「私はどのみち武藤に昼食を用意させるつもりだからな。お前に奢られようと武藤に奢られようと私にとってはなんの違いもない」
「ちなみに俺にとっては大違いだからなそれ」
「そんなことよりも牧原慧、さっさと本題に入ろう。お前、彼女が欲しいということだが。具体的に付き合いたい相手でもいるのか?」
 イズモが尋ねる。牧原は先ほどまでとは打って変って小さな声で言った。
「あ、ああ。実は、随分前から気になっている相手が――」
 そのとき、牧原は再び顔を強張らせた。はたから見ていても分かるほどに息遣いが荒くなる。額には脂汗が浮かび、苦しそうに顔をしかめた。
「お、おい。大丈夫なのか、こいつ?」
 イズモが眉をしかめる。
「おい牧原、大丈夫か? 『発作』か?」
 俺が声をかけると、牧原は小さな声で「大丈夫だ」と答えた。何度も深呼吸を繰り返し、牧原はようやく落ち着いたようだった。青ざめた唇を動かそうとする牧原を、俺は手で制した。
「いい、俺からイズモには説明しよう」
「……済まない」
 牧原はそう言って、ぐったりと背もたれによりかかった。
「――牧原は男子校の出身でな」
 俺は言った。イズモは怪訝そうな顔をしながらも、俺の話に耳を傾けているようだった。
「小学校から私立の男子校に通い、中学受験で都内でも有数の進学校に進んだ。そこも、もちろん男子校だ。中高一貫校だったため、高校生まで牧原は同級生に女子がいたことがない」
 牧原はこくりとうなずいた。
「さらにまずいことに牧原は一人っ子で、姉妹の一人もいない。それどころか親戚にすら、同世代の女の子は一人もいなかったそうだ。つまり牧原慧は、『同じ年頃の女の子』と会話した経験が絶無と言っていい」
「……俺は実にこの数年、同世代の女子とまともに会話したことがなくてな。せいぜいコンビニのレジで店員さんに『温めますか』と言われて答えるくらいのものだな。それすら緊張してしまうのさ」
 なるほど、とイズモが言った。大体の事情は察してくれたようだ。
「つまり、同世代の女と会話した経験がほとんどないため、女とどう話せばいいかも分からないと。これが牧原慧の〝病気〟か?」
「近いが、もっと深刻だ。牧原は同世代の女性に話しかけられるだけで、目の焦点は合わなくなり心臓の動悸は止まらなくなる。異常な緊張状態がもたらす症状で、一種の発作だ」
「女性恐怖症のようなものか?」
 イズモの質問に、俺は首を振った。
「一般的に女性恐怖症というものは、その根底には女性へのトラウマや嫌悪感がある。だが牧原の場合、心の中では確かに女性との交流を望んでいるんだ。だが体がそれを許さない。牧原の意志に関わらず、体は女性という未知の存在に対してアレルギー反応を起こしてしまう。考えようによっては女性恐怖症よりもタチが悪い」
 女性と話すときに緊張すること自体は、男性としてはごくごく真っ当な反応だろう。俺自身も男子校の出身なので、異性と会話するときに感じる独特の居心地の悪さはよく分かる。ただ、牧原の場合はそれが常軌を逸しているのだ。
「世の中、女は人類の半分いるんだ。女子と交流せずに生きてきたこと自体が、生物として不自然なんだよ。実に十二年にも渡る男子校生活が、牧原に女性への恐怖を植え付けてしまったんだ。
 牧原は、〝男子校病〟の患者なんだよ」

 いつ頃からこんな体質になってしまったのかは分からない、と牧原は言った。
「いずれにせよ大学に入った時点で、俺は女性と会話することが不可能になっていた。女性を前にしただけで汗が吹き出し、視界が振り子のように揺れ始めるんだ。今だって、武藤に顔を向けていないとまともに会話することも出来ない。だから俺が目を見て話せなくても、どうか気にしないでくれ。イズモさん」
「ふーん」
 イズモはそう言ったあと、なぜかにやりと笑った。性質(タチ)の悪い悪戯を思いついたガキ大将の顔で、俺は嫌な予感がした。
 おもむろにイズモは椅子から立ち上がり、テーブルの上に身を乗り出した。そしてなにを思ったのか、牧原の手をキュッと握った。
「や、やめてくれ! 発作が! 男子校病の症状が!」
 牧原が目を白黒させる。一方でイズモはにやにやと笑ったままだ。俺は慌ててイズモと牧原を引きはがしにかかった。
「おいイズモ、やめろ! 牧原がショックで死んでしまう!」
 すでに我が友人の顔は土気色になり、目は焦点を失ってあらぬ方を向いていた。
「ほう、本当にアレルギー症状が出るんだな。面白い」
 イズモはようやく牧原から手を離した。牧原は糸の切れた人形のように、どさりと椅子の上に崩れ落ちた。その口の端からは一筋の涎が垂れていて、色男の見る影もない。
 数分のあいだ水を飲ませたり背中をさすったりして、ようやく牧原の症状は落ち着いたようだった。酷い目にあった、と牧原が虚ろな目をして言う。
「……イズモさん。悪気はないのかもしれないが、そのような悪戯はやめてくれ。俺の体が持たない」
「ふん。だが、彼女を作ろうと言うなら、この程度で死にかけていては話にならんぞ。牧原よ、お前が送ってきたメールの内容は覚えている。お前は彼女が欲しいのだろう?」
 牧原はぐっと唇を噛んだ。
「……ああ、その通りだ」
 絞り出すように牧原は言った。そしてぽつりぽつりと話し出す。
「一年以上前から、好きな女の子がいるんだ。同じクラスの女子でな。戸城恭子さんという名前だ」
「戸城……戸城恭子……ふむ」
 イズモがリュックから例の巨大なファイル――閻魔帳を取り出すと、凄まじい勢いでそれをめくり始めた。
「元々は同じクラスというだけで、さして意識もしていなかったんだ。以前、授業の関係でコミュニケーション・プラザを通りすがったことがあってな」
 ふーん、と俺は相槌を打った。ちなみにコミュニケーション・プラザというのは駒場キャンパスの東に位置する細長い建造物で、いったい製作者はどんな意図を込めてこんな奇妙な名を付けたのかは不明である。ガラス張りになった壁面や、見る者を妙に不安にさせる絶妙に曲がりくねった通路配置が印象的な建物だ。
「あそこの二階では、ときどき合唱系サークルがミーティングや打ち合わせをしていることがある。あの時もそうだった」
 牧原は遠い目をした。
「俺は二階の廊下を早足で歩いていた。だがふと、美しい歌声が耳に流れ込んできたんだ。思わず立ち止まり、耳を澄ましてしまうほどに綺麗な旋律だった」
「へえ」
「部屋では数人の女性が合唱の練習をしていた。中でも一際背の高い女性に、俺の目は吸い寄せられた。それが戸城さんだ。髪は晴れた夜空のように深みのある黒でな、さらさらと肩に垂れていた。肌の色はまさしく陶磁のように白く透けていた」
 聞いていてこっちが赤面するような恥ずかしい台詞だが、当の牧原は真顔で滔々としゃべり続けている。恋は盲目という言葉が脳裏に浮かんだので、慌てて頭(かぶり)を振って打ち消した。
「それ以来、ずっと彼女のことが気になっている。教室でも目で追ってしまって、肝心の授業に身が入らないこともあった。なんとか話しかけて、仲良くなろうとしたのだが……」
「男子校病のせいで、ろくに話しかけることも出来ないと」
「それどころか、戸城さんを視界に収めるだけで心拍数が跳ね上がり手足がわななき頭が真っ白になる」
 なるほど、とイズモが言った。イズモは閻魔帳に目を注いだまま言った。
「ではその戸城恭子と付き合いたい、というのがお前の希望か?」
「付き合いたいとまでは言わないが……。せめて、友人として会話できるようになりたい。彼女の声が俺に向くなら、それで十分だ」
「温(ぬる)いな。ヘタレか貴様」
 イズモはずけずけと言った。
「そんな甘っちょろいことを言っているから駄目なんだ。人間は自分で決めた目標を超えて結果を出すことはできん。潔く威勢よく最高の結末を期していけ」
 そう言って、イズモはぱんと閻魔帳を閉じた。その顔には、見慣れた邪悪な笑みが浮かんでいる。
「――喜べ牧原よ。すでに私には、戸城恭子という女を陥落させるための道筋が見えている」
 イズモはとんとんと閻魔帳を叩いた。

 その日の夜。俺と牧原はとある池袋のバーにいた。
 大通りを少し外れた場所にぽつんと一軒寂しげに佇んだ小さなバーで、細長いカウンターの前に座る人々の姿はまばらだった。雰囲気作りなのだろうか、最低限の光しか室内にはない。牧原と一緒に店の最奥の椅子に腰かけ、じっと店の様子を窺っていた。
 時刻はすでに十時を回っている。俺や牧原の他にも客の姿は数名見えるが、大半が一人客だ。なにやらムツカシイ名前の酒を頼み、ちびちびと飲んでいる。
「武藤。あそこだ」
 牧原が声を潜め、店内の一角を指差した。カウンター席から料理を運び出す女性のウエイターが一人見えた。俺も小さな声を返す。
「……あれが戸城さんか?」
「ああ。間違いない」
 イズモの閻魔帳には、きちんと戸城恭子のデータも記されていたようだ。それによると、戸城は週に二回、このバーでバイトをしているとのことだった。
 戸城恭子は牧原の話通り、背の高く鼻筋の通った美人だった。今は髪を背中で結んでいるが、牧原によると普段は下ろしているらしい。
 そのとき、俺たちの視線を感じたのか、戸城がこちらへと近付いてきた。俺と牧原は慌てて下を向き顔を見られないようにした。
「お客様。何かご注文はありますか?」
 戸城は穏やかな声で言った。
(……まずいな)
 この店には入る前、イズモは俺たちにある計画を伝授していた。なかなかに卑劣かつ迷惑な策略で俺は反対したが、結局イズモに丸め込まれてしまい今に至る。最近分かってきたことだが、あの女は異常に口喧嘩が強い。
 イズモの計画によると、牧原や俺は顔を見られない方が良いとのことだった。幸い店内は暗いためそう簡単には気付かれないだろうが、それでも真正面から顔を合わせることは避けたい。
 俺は慌ててメニュー表を見た。なにやらわけの分からないカタカナが大量に羅列してあり、俺は一層の焦りを覚えた。
「エ、エクソシストを一つ」
 わけも分からず目についたメニューを適当に注文する。ちらりと横を見ると、牧原も俺と同じく冷や汗をダラダラ流していたが、やがて小さな声で「エクソシストをもう一つ」と言った。
「エクソシストを二つですね。それでは少々お待ちください」
 戸城は小さく一礼し、そのままカウンターに戻っていった。戸城と牧原は同じクラスだから何度か顔を合わせたことはあるはずだが、どうやら牧原には気が付かなかったらしい。
「いや、焦ったな」
 牧原が苦笑しながら言った。俺は大きくため息をついた。
「こんなオシャレなバーなんて来たことないぜ。勝手が分からん」
「俺もだ。まあ今夜は奢るから、金の心配はせずに飲んでくれ」
 ほどなく透明なグラスに入ったカクテルが運ばれてきた。カクテルは目に鮮やかな水色をしている。目の前に置かれたグラスを、俺と牧原はしげしげと眺めた。
「……これ、飲んで大丈夫なのか? なんか毒でも入ってそうな色だけど」
「大丈夫だろう」
「どうして分かる?」
「戸城さんが持ってきてくれた飲み物だ。安全でないはずがない」
「ああそうかい」
 牧原はくいとカクテルを飲んだ。うむ、と牧原は頷く。
「なかなか美味いぞ。武藤も飲んでみろ」
「そうか。それなら」
 俺はグラスに口をつけ、少しだけ水色の液体をすすり込んだ。
「……おお」
 俺は思わず舌鼓を打った。
 俺が普段飲み会で行くような居酒屋で供されるカクテルと違い、安っぽい甘ったるさはない。代わりに鋭い酸味が舌を刺し、そして心地よく去っていく。良い後味だった。
「確かに美味いな。なるほど、バーのカクテルって美味しいんだな」
 最初こそ勝手が分からず戸惑ったが、こんなものが飲めるならバーというものも悪くはない、と俺は思った。
 そのとき、店の扉が静かに開いた。風の音とともに、屋外を歩く人の話し声がわずかに聞こえてきた。
 店に入ってきたのはイズモだった。イズモは店内をぐるりと見回したあと、つかつかと俺たちの座る椅子に近付いてきた。
「首尾は?」
「ばっちりだ」
 イズモは満足気に頷いた。そして俺の横のソファーにぽさりと座る。いいのかなあ、と申し訳ない気分になりながら、俺はカクテルを飲んだ。

 イズモが来店してから数分後、やにわに店の出入り口からけたたましい声が聞こえた。
「おう、三人だ! さっさと案内しろよ」
 見ると、スーツ姿の男たちが三人、ずかずかと店の中に入ってくるところだった。いずれも四十代に差しかかったくらいの年齢だろうか。中には頭髪が随分と寂しくなっている奴もいる。
 男たちは場違いに大きな声で、辺り構わず下品な話をしていた。その顔はいやな塩梅に赤く、どう見ても酔っぱらっている。すでに他の飲み屋でしこたま酒を入れてきたのだろう。
 男たちは入り口近くの席に案内された。見ると戸城をはじめ店員は皆困ったように顔を見合わせていた。こんな洒落た店ではあの類の客は迷惑以外の何物でもないのだろうな、と俺は推測した。
「ああ? なんじゃこりゃ、高過ぎる! 聞いていたのと違うぞ!」
 男の一人が怒鳴った。三人の男たちの中では一番年嵩がいっており、他の二人からは「部長」と呼ばれていた。
「おい! なんだこの値段は! 赤坂のクラブ並みじゃないか!」
「部長」が唾を飛ばして怒鳴った。店員の一人が慌ててカウンターから走り出てきた。戸城だ。
「も、申し訳ありません。ただ当店はかねてからこのお値段でお客様に提供させていただいておりますので、どうかご容赦いただければ……」
 戸城は頭を下げた。だがそのつむじに反吐でも吐きかけるように、呂律の回らないまま「部長」はがなり立てた。
「馬鹿野郎、こんなに金を取るなら初めからこう言え、話が違うぞ! これならキャバクラにでも行った方がマシだろうが、ええ!? それとも姉ちゃん、あんたが注いでくれるのか?」
 大して面白い冗談でもないと思うが、「部長」の横の二人がえへへと下品に笑った。彼らの目は戸城のスカートから伸びる足に注がれていた。
「よう姉ちゃん、なかなか可愛い顔してるじゃんか。一杯付き合えよ、奢ってやる」
 毛むくじゃらの手を伸ばし、「部長」は戸城の腕をつかんだ。
「お、お客様。困ります、私は……」
「ああ!? 俺は客だぞ、客の言うことが聞けねえのか!」
「部長」の大音声が店に響き渡った。今や店の中にいる全ての人間の視線が「部長」たちに集まっていた。
「――おい、お前」
 そのとき、店の中に静かな声が響き渡った。横の椅子を見ると、先ほどまでそこに座っていた牧原の姿が消えていた。
 牧原はつかつかと「部長」に歩み寄った。そして戸城の手をつかんだままの「部長」の腕をむんずとつかむ。
「その汚い手を離せ、店員が困っているだろうが」
「ああ?」
 椅子に座ったまま、ぎょろりと「部長」は牧原を見上げた。俺は固唾を飲んでその様子を見守った。
「んだてめえ、ナニモンだ?」
「ただのしがない客だ。だがお前の狼藉を見過ごすわけにはいかん。折角の酒も不味くなる」
 牧原はぴっと店の出入り口を指差した。そして「部長」をにらみつける。
「出ていけ。お前のような人間など客ではない。迷惑行為はよそでやってもらおう」
 しばらくのあいだ、「部長」は憮然として牧原を見上げていた。だがしばらくして、盛大な舌打ちをする。
「部長」は部下の二人を連れて、足音も荒く店をあとにした。去り際、彼は机に一万円札を叩きつけていった。
 しばらくのあいだ、店内には沈黙が満ちていた。だがぽつりと戸城がつぶやく。
「あ、あの……ありがとうございました」
 戸城は牧原に歩み寄り、頭を下げた。そして牧原の顔をのぞき込み、目を見開く。
「あ……。ま、牧原君?」
 ようやく気付いたらしい。牧原は戸城に目を向けないまま、短く「久しぶりだな」と言った。
「気付かなかった。牧原君、来てくれてたんだ」
「たまたまさ。友人と酒を飲みに来ていた」
 そうなんだ、と戸城がつぶやく。その目はいい塩梅に潤んでいた。
 ちなみに牧原は頑なに戸城に目を向けようとしない。男子校病の発症を恐れてのことだろう。
「騒いでしまって済まなかったな。もう俺は出るよ」
 そう言って牧原は店の出口に向かった。待って、と戸城が走り寄る。
「そ、その。牧原君。同じクラスなんだし、これから会うこともあるだろうし……。よければ、連絡先を教えてくれないかな?」
 牧原はしばらくじっと店の出入り口をにらんでいた。しばらくして小さく頷くと、牧原はポケットからスマホを取り出した。

「おい牧原!」
 牧原が会計を終えたあと、俺とイズモは慌てて牧原のあとを追った。牧原はふらふらと近くの通りを歩いていた。
 後ろから声をかけると、牧原はゆっくりと振り向いた。その顔はだらしなく弛緩しており、俺はなんとも言えない気分になった。
「武藤。俺はやったぞ。戸城さんの窮地を救い、そしてメールアドレスと電話番号、さらにはLINEのIDまで教えてもらってしまった」
「あ、ああ。良かったな」
 俺は曖昧に笑った。俺の横では、イズモがむんと胸を張って偉そうに歩いている。
「とりあえずは連絡先を手に入れたな。牧原よ、ご苦労だった」
 イズモはそう言って頷く。俺は呆れた気持ちで言った。
「よく言うぜ。あんな手の込んだ真似をしやがって……」

 事の顛末はこうである。
 戸城のバイト先に気付いたイズモは、あのバーに関する幾つかの特徴に目を付けた。
 一つ目に、池袋という東京屈指の繁華街に位置すること。二つ目に、客層の大人しく上品な、小さな店であること。
 俺たちがあの店に入ったのは午後の九時を少し回った時だった。だがイズモはそれよりも少し早い時間から池袋へと繰り出し、虎視眈々と『適格者』を物色していたのである。
 適格者とはつまり、店で一悶着起こしてくれそうな、いかにもマナーの悪そうな酔っ払いたちだった。
 夜の池袋というのは酔っ払いの巣窟みたいなものである。イズモは適当な酔っ払いの集団に声をかけた。
 そしてさらに悪質であるのが、声をかける際にイズモはバーの店員のフリをしていたという点である。
「今、うちの店では割引やってるんですよ。ぜひ来てください!」
 そう言って、イズモは「部長」たちを店に誘導したのだ。
 イズモの計画のこすいところは、その勧誘に際して本来の価格よりも大幅に安い値段をでっちあげた点だろう。店にやってきた「部長」たちが、酒の値段を見て怒り出すようにするための策だった。
 その計画はまんまと成功し、ああして「部長」たちは怒り心頭に達したわけだ。その点を鑑みるに、いくらマナーが悪かったとはいえあの「部長」たちに同情の念を禁じ得ない。
 イズモの作戦とは、戸城のバーに現れた迷惑客を待ち構えていた牧原が颯爽と追い払い、それを機に戸城と一気に仲良くなろうというものだった。
 計画の詳細を聞いた際、俺は反対した。これはいわゆる営業妨害と呼ばれる行為である。だがその際のイズモの返答は簡素にして明快なものだった。
「法律なんぞ知るか、私がルールだ」
 かくしてイズモの悪辣な謀略は成功し、こうして牧原は戸城と大いに仲を深めることに成功したわけである。
 だらしなく笑いながら前を歩く牧原を見ながら、俺はなんとなく釈然としない気持ちになったのだった。

***

 翌日。俺たちは再び食堂に集い、今後の方針を相談していた。
「昨日の晩、戸城さんからLINEのメッセージをもらった」
 牧原がうきうきとした口調で言う。
「助けてくれてありがとう、今後も仲良くして欲しい――。だいたいそういう趣旨の内容でな。そのあとも何度か他愛もないやりとりをした。俺は幸福だった」
 牧原はえへへとだらしなく笑った。楽しそうで何よりである。
「お前、LINEなら男子校病は出ないんだな」
「ああ。あくまで面と向かって話そうとしたときだけだ。メール程度なら気軽にこなせる」
 牧原は俺にスマホの画面を見せてきた。そこには戸城さんからのLINEメッセージが表示されていた。
『牧原君が、凄く面白い人で驚きました。もっと早く仲良くなれれば良かったのにね。お休み!』
 そしてサンリオのスタンプである。それに対して牧原も、どこで仕入れたのか分からない可愛い、というかあざといクマのスタンプを送り返している。見ていて大変腹の立つやりとりだった。
「お前俺とLINEするときはスタンプなんて使わないだろうが」
 俺がそう文句を言っても、牧原はにへらにへらとスマホの画面を眺めているだけである。一発殴りたくなったがぐっと堪えた。
 そのとき、「きゃ」と小さく可愛らしい悲鳴が聞こえた。俺はなんとなしに声のした方を振り向いた。
 俺と牧原が座っている場所からは少し離れたテーブルを囲んで、若い男女が座っていた。二人とも見覚えのある顔だった。高木君と笠野さんである。先日、イズモの尽力の甲斐あって付き合いだした二人である。
 高木君の頬を、笠野さんはぷにぷにとつついていた。高木君は見ているこっちが情けなくなるくらいに締まりのない顔でデヘデヘと笑っていた。
「あそこにいるのは高木君と……笠野さんだったか。ふむ、随分と仲が良さそうだな」
 牧原も高木君たちに気付いたらしい。俺はじっとりとした視線を高木君カップルへと注いだ。
「ね、アイス半分こしよ」
「うん。あ、でもスプーンが一つしかないよ」
「何言ってるのよ、一緒のを使えばいいでしょ」
「そ、そっか」
「もう、抜けてるんだから。それとも、私と同じのじゃ、いや?」
「そんなことはないよ!」
 高木君はぶんぶんと首を振った。そして高木君と笠野さんは、どちらからともなくにへらにへらと笑って顔を見合わせた。
「……なんだあのバカップル……」
 俺はげんなりとつぶやいた。周囲を見回すと、俺の他にも白い目で高木君たちを見つめる人がいた。だが当の高木君たちは人目も気にせずキャッキャウフフと騒いでいる。牧原といい高木君といい、どうも俺の周りの男は最近顔の締まりがなくなってきている。
「高木君め……最近アメコミ研究会の活動に来ないと思ったら、さては彼女とイチャイチャ遊んでやがったな」
 俺は恨みがましく言った。
「牧原よ。図に乗るのはいいが、問題はここからだ。分かっているだろう?」
 そのとき、俺の横に座るイズモが声を上げた。イズモは先ほどから一心不乱に閻魔帳をめくっていたのだが、今はその視線を牧原に向けている。
「気軽に連絡を取り合える関係になったのは、大きな前進には違いない。だがこれから本格的に戸城恭子を口説こうとするなら、どう足掻いても最終的にはお前は戸城と一対一での会話を余儀なくされる。お前、できるのか?」
 弛緩していた牧原の顔が、嘘のように覇気を失った。空気の抜けた風船のようにしょんぼりと牧原は俯く。
「その通りだ。男子校病は俺の持病だ、そう簡単には治らない。これからどうすればいいのか……」
「治すしかないだろう。考えるまでもない」
 イズモが当たり前のように言う。牧原が口をとがらせた。
「簡単に言わないでくれ。かれこれ数年この病気に悩まされてきたんだ。そう簡単に治るなら苦労はない」
「つべこべ言うな。いいか、牧原よ」
 イズモはぐっと顔を牧原に寄せた。牧原はヒッと声を上げて後ずさり、イズモから目を背けた。
「断言する。今から二週間。その間に戸城を口説き落さなければ、お前はあの女と友達関係を維持することすらできないだろう。勝つか、負けるかだ」
「な、なぜだ?」
 牧原が憮然として言う。
「いいか、お前はもう二年生だ。つまり必修の授業はほとんど残っていない。お前が戸城と自然に顔を合わせる機会は限られているということだ。さらに二年生はこれからの時期は進学振り分けがある。それが終わればキャンパスが変わる。なおさら会うチャンスは減るだろう」
 俺は内心で舌を巻いた。イズモは外部の人間なのに、東大の異常に複雑な履修・進学システムをよく理解しているようだった。
「単純接触効果と言ってな。人間は顔を合わせれば合わせるほど相手に好意を抱く、というものだ。裏を返せば、顔を合わせなければ相手への好意というのは時間とともに目減りしていく。このままのほほんと時間を浪費すれば、連絡頻度も減りお前と戸城恭子は再び赤の他人同士に戻るだろう」
 ぐっと牧原が言葉に詰まる。たしかに、今のイズモの言葉に対しては俺も異議はない。正論と言えるだろう。
「じゃ、じゃあ、どうすればいい」
「デートに誘え。今すぐに」
「そ、そんな。俺にも心の準備が」
「うるさい」
 イズモは牧原の手に握られたスマホを奪った。そして神速の指さばきでスマホ操作を開始する。
「あ、お、おい!」
「うるさいぞ牧原。お前の代わりに戸城恭子をLINEでデートに誘ってやっているんだ、咽び泣いて感謝しろ。……そら、送信完了だ」
 イズモはスマホ画面を俺たちに向けた。そこには短く、『今週末にでも、例のアボカド専門店行ってみない?』とのメッセージが送信されていた。牧原が奇声を上げる。
「な、ななな何てことをしたんだ! こ、こんな、いきなり誘うなんて……!」
「黙れ童貞、だからお前は駄目なんだ。何度言ったら分かる、拙速は巧遅に勝る。恋愛はタイミングが命なんだ」
 人のスマホを奪ってさらには勝手にメッセージを送信しておきながら、イズモの口振りにはいささかの躊躇もない。俺は言った。
「……ちなみに、そのアボカド専門店ってのは何だ?」
「昨晩のこの男と戸城恭子とのLINEで、最近オープンしたアボカド専門店の話題が挙がっていた。戸城は興味があるようなのでな、それをダシに誘ってみた次第だ。……お」
 画面に表示されたメッセージの横に、小さく「既読」の文字が表示されていた。戸城がこのメッセージを見た証拠だ。牧原の顔色が蒼白になった。一方でイズモはふてぶてしく笑みを浮かべている。
「既読が早いな。ひょっとしたらお前からの連絡を待っていたのかも知れんぞ」
「ア、ウ、ア、ウアアウアウ」
 牧原は語彙を失っていた。
 そのまま数分の時間が過ぎた。俺の首筋に浮かんだ冷や汗がぽたりと机の上に垂れて汚い染みを作ったころ、ようやく戸城からの返信が来た。
『いいね。日曜日なら私は大丈夫だよ! 牧原君は夜の方が都合いいのかな?』
 戸城からの返信はこのようなものだった。
 しばらくのあいだ、牧原は目を見開いたまま、イズモの握ったスマホに見入っていた。だがやがて、牧原は握り拳を天に突き出し、
「ィィィヨッシャアァ――――!」
 と叫んだ。周囲の人が何事かとこちらを振り返る。
 牧原は我を忘れて喜んでいた。その喜びに水を差すのもどうかと思い俺はしばらく黙っていたが、しばらくしてぽつりとつぶやいた。
「……なあ、牧原。喜ぶのはいいんだけどさ。お前、男子校病なのにデートなんてできんの?」
 そうだった、と牧原が言った。見ていて面白いほどに牧原の顔から生気が抜けていく。
「二人で食事なんて、どうしたって相手の顔は見なきゃいけないだろう。しかも会話だってしなきゃいけない。お前、できるのか?」
「……………………できない」
 長い沈黙の末、牧原は苦しそうに言った。先ほどまでとは一転して、牧原の表情は暗いものになっていた。
 イズモがふんと鼻を鳴らし、牧原にスマホを放り投げた。慌ててスマホを受け取る牧原に、イズモは言った。
「馬鹿かお前は。週末のデートまではまだ時間がある。それまでに鍛えるしかない」
「で、でもイズモさん。俺のこの病気が、たかだか数日で治るとは思えない」
「知るか。無理矢理にでも矯正するだけだ」
 イズモの顔を見た牧原が、冷や汗を流しながら一歩後ずさった。
「牧原よ。今日から、お前の男子校病克服に向けてリハビリを開始するぞ。週末のデート、なにがなんでも成功させてみせる」


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